昭和48年頃から円高が進行し輸出の環境が厳しくなってきたので内容に変化が現れ出し た。例えばそれまでイタリアに良く出ていた小箱入りの両先のつまようじがコスト高にな り、代わってつまようじだけをバラで輸出するようになってきた。この背景にはイタリア での包装機械の発展やコンテナ船による戸口から戸口への大量輸送のコスト削減も見逃せ ない。
黒文字ようじは需要があるのにその素材の都合で人手に頼らざるを得ず、慢性的な品不足が続いていた。これを解決するため菊水産業(株)の場工耕司は困難な機械化に踏み切り、多くの工程を独自に開発した機械で加工出来るように工夫しその量産化に道を開いた。これにより黒文字ようじのみならずつまようじの産地としての面目が保たれたのである。
昭和51年に大阪府妻楊枝協同組合は今木誠造の論文を借用して業界の小冊子を作成した それによると業者数21社・出荷額内需向け18億、輸出向け10億円である。
当時の協同組合の理事長・溝之上一義は包装作業の合理化を進めるために自動包装機の共同開発を強力に推進し、業界の近代化に貢献した。
広栄社は昭和37年以来主にヨ-ロッパの歯ブラシメ-カ-へ三角ようじを輸出してきた 実績から何とか我が国でも三角ようじの普及を図りたいと考えていた。
最初に採用してくれたのは日本バイエル歯科(㈱でこの会社は歯科医院向け商品を作って おり、親会社がドイツでもあるので三角ようじの認識が進んでいたものと思われる。 先方の名を入れた輸出品によく似たパッケージに三角ようじを入れて販売した。
裏面
次に海外での経験から日本の歯ブラシ大手に直接電話を入れた。最初の会社に電話すると私共はそういうことは計画していませんと電話で断られた。 ヨーロッパで一度も断られたことがなかっただけに、日本での販売の困難さを痛感した。 これに懲りずに次はサンスター社へ電話をしたところ、商品企画課へ繋いでくれた。 担当者は「貴方は面白い情報をお持ちのようなので、一度来てください」となり、すぐに 訪問した。ヨーロッパの歯ブラシメーカーの複数のパンフレットを持って面談した。 それをご覧になり、ヨーロッパは歯の予防用具は進んでいると驚かれた。 サンスタ-は歯への関心の高まりから歯ブラシの周辺の用具として歯間清掃具の開発を企画しており、「ドクターヘルス」のシリーズの一環として三角ようじの採用を決めたのである。
これによりつまようじの本来の用途である歯間清掃具としての我が国での新しい展開が始まることになる。 昭和53年広栄社はサンスタ-との間で三角ようじを相手先ブランドで供給する契約を結んだ。サンスター社のイメージを出すため、ようじの先端に白い薬剤(殺菌剤のクロロヘキシジン)を塗布し、フィルムで個包装した。生協でも取り上げられ、三角ようじが普及するかと思われたが、13年目になった時、新しい担当者は現状の実績ではこれ以上扱えないと断られてしまった。つまようじの変革は「ようじは丸いもの」という固定観念への挑戦だと諦めるより仕方なかった。 このシリーズのためにサンスター社は10社を超える各メーカーと共同開発を行っているが、「貴社の対応が抜群に優れているので安心です」という担当者の言葉を聞き、長くヨーロッパのメーカーとの取引実績のお蔭だと自信になった。 昭和57年更に円高が進み国内市場の開拓を急いでいた広栄社は府立貿易館のデザイン指 導を受ける。担当の水戸部洋一の懇切丁寧な協力により、翌年の昭和58年に(株)コシダア-トの越田英喜を紹介され本格的なデザイン戦略を導入する。彼はつまようじの欧米における使い分けの我が国での定着というはっきりしたコンセプトの元に指導した。 従来のイメ-ジを一新し、新しい販路の開拓が始まった。 最初にできたデザインが「リンゴ、トマト、オレンジ」のパッケージでヘルシー感覚あふれる明るいイメージである。従来のつまようじのイメージを打破している。(画像) 販路はタバコ屋・駅売店・ギフトショップ・ノベルティ(簡単な販促品)・バラエティショップ等である。