江戸中期に簡単な台の上に房ようじを並べて売る露天商のような形で楊枝が売られ始めた。それが次第に店を構えて店先で作って売るようになってきた。特に浅草寺の境内が有名で文化文政期(1806~1829)には120軒程
の楊枝店で賑わっていたという。 江戸名所図会には境内に楊枝店がひしめくようにあったことが分かる。
次第に楊枝を使う人々が増え,江戸の後期から店先での製造だけでは需要に応じきれな くなってきた.やがて材料の産地でも製造されるようになった. 下総の古河,上総の久留里,河内の玉串村,若狭の名田庄,豊前の立石村等が有名. 古河と久留里は浅草寺の,玉串村は道頓堀の,名田庄は四条の楊枝店へ運ばれた. いずれも楊柳や黒文字の原木が近くに豊富にあり,且つ消費地に近い所に発達した. ではこのように全国的に多くあった産地が,河内長野に集約された背景を探ってみる. 河内長野は明治の初め頃には近隣に多くあった黒文字の原木を当時の大阪の製造家に販売していた. 明治13,4年頃に南河内郡高向村の大宅長平が「黒文字楊枝」の製造に着手したの が初め.同16年頃,同村の垣内清多郎がこれをうけつぐ形となり,最初は黒文字の原料を大阪市東区平野町青川某に送っていたが交通が不便で輸送費が高くつくため,村内で製造するほうが得策と考え,青川某と小源太某の二人を招聘し,ここに初めて「爪楊枝」 の本格的製造に着手した.(垣内氏は大正3年に大阪府の農家副業成績品展覧会で受賞)
明治21年の大阪府農事調査(市郡別・河内国九:管内総覧十)に拠ると
米・・・作付反別 47,754町1反 生産額 913,580石
価格 4,944,670円
とあり、副業の種類について次の文章がある。
「本郡農家余業の重なるものは木綿織、糸紡ぎ、氷豆腐製造、炭焼、採薪等なり。 木綿織、糸紡ぎは婦女子の業にして綯縄、草履織は男子に属し共に夜間に凡そ三時間自家 にて之を営み氷豆腐製造、炭焼、探薪も又男子の業にして農隙に於いて従事す。 以上合計人員凡そ8,803人、一年概算収入金19,663円にして之を郡内農家戸数 3,385戸に割当れば平均一戸に付き5円80銭9厘に当たる。その細別下記の如し。
職業 人数・収入 木綿織・糸紡ぎ 綯縄・草履織 氷豆腐製造 炭焼き
就業人員 女4,729人 男2,187人 男62人 男156人
一年の収入金 1,385円 11,482円 690円 1,242円
職業 探薪 妻楊枝削り 養蚕 製茶
就業人員 男1,135人 235人 230人 69人
内女145人 内女130人 内男46
一年の収入金 3,365円 156円 158円 184円
このように圧倒的に多いのが木綿織りである。このことは三代目広重の大日本物産図絵・ 明治10年版にも河内国・木綿ヲ摘採ル図と木綿織機之図で描かれている。
次に明治45年農商務省山林局編纂の「木材の工芸的利用」を見ると当時の「つまようじ 」の製造の状況が判るので掲載する。