大正13年7月31日・工場での記念撮影・着物を着ている女子工員 (写真参照)
大正13年11月に東洋妻楊枝(株)は三重県商品陳列所主催の工産資料展覧会に丸妻楊 枝を出展した。 (別紙参照・感謝状)
ところが大正12年頃からアメリカより輸入されだした平楊枝がその安さと珍しさで次第 に市場を圧し始める。河内長野の業者からもなんとかアメリカに負けない楊枝を作って欲 しいと強く要請された。 先進国の製品を見つめ、将来の楊枝は機械での生産の気運を感 じた稲葉由太郎は三重県商品陳列所にその製造機械の調査を依頼した。 そして、送られて来た手紙と機械の写真(別紙参照)
そのフルセットの機械代金の高価さの故に、農商務省へ貸付け願いを出す。(別紙参照)
その願いが聞き入れられないのでやむなく一部の機械を東洋妻楊枝(株)で購入する。
上記の写真の下から二台である。
1。薄くした帯状の板の両端を削ぐ機械
2。その後、金型で打ち抜く機械)
米国より機械の購入を報ずる大正13年11月12日付け中京毎日新聞三重号
安いアメリカよりの輸入品による各地の工場の影響の様子が窺える。 導入した機械の設置につき色々考慮の末、集散地である河内長野での機械製造を決定し、 三重県は引き続き従来の丸楊枝の製造を行うことにした。
アメリカの機械の説明書によると必要な機械は
1.原木の切断機
2.切断した原木を厚さ2ミリにかつら剥きする機械
3.かつら剥きした板の両端を削る機械 (輸入機の1)
4.両端を削った板をつまようじの形に打ち抜く機械 (輸入機2)
不足している機械を国産で調達した。
土地と建物を借り、材料である白樺を地元の木材業者に尋ねると聞いたことがないという返事。
仕方なく、大阪市内の木場に依頼したところ、「白樺が初めて世に出る」と木場中 で話題になったと言う。我が国では白樺はそれまで殆ど利用されていなかったのである。
大正15年8月 大阪府南河内郡長野町上原679番地に広栄社を設立 白樺による平楊 枝の機械生産を始める。従業員7名、年間生産額4,000円 。
日本で初めてつまようじが機械生産されたのである。アメリカに遅れること40年。
大きなモーターを回してその回転力をベルトで利用するための木製プーリー
布製ベルト
薄い板を打ち抜く抜き型刃物
工場統計規則(大正12年12月11日付け農商務省令臨第15号)の提出控えが残って いるので記載する。
生産は全て白樺製の平楊枝である。
年度 従業員 年間生産数 金額 工賃 男(女) 電動機
大正15年 7 200梱 4,000円 1,5(0,6)円 2馬力
昭和2年 7 300梱 4,500円 1,5(0,6)円 2馬力
昭和3年 7 400梱 4,800円 1,5(0,6)円 2馬力
注)昭和2年に1梱は約50万本入り、1万本は30銭との記録より推察すると大正15 年には1万本40銭、昭和3年1万本20銭とコストダウンの経過が判る。
大正12年 アンパン 2銭5厘
昭和6年まで 郵便封書(15gまで) 3銭
葉書 1銭5厘
「値段の風俗史」朝日新聞社 昭和56年刊 1981