帰って大谷さんに話すと喜ばれ、私も行きたいということになり、話すと私の家内も加わりたいとその年の年末年始に訪問することになった。 12月31日にペニーさんの自宅を開放してニューイヤイブのパーティが催された。 家内が英語を話せないのを知っておられたので近くに住む日本の留学生を一緒に呼んで下さっていたので家内も楽しく過ごせた。こういう配慮が行き届いている。あちこちを案内してもらい、最後の1月3日はジャックさんがシドニー湾のクルージングで「さよならパーティ」を催して下さった。招かれたのは我々の他に、サンフランシスコで暮らしているペニーさんの娘さんご夫妻でジャックさんの息子夫婦、娘夫婦、ペニーさん夫婦であった。 船に乗り込むとすぐに楽団が我々を日本人と分かり、日本の歌の演奏で迎えてくれた。 家内は着物で参加したので珍しがられ、次々ダンスに引き出され、楽しんでいた。 その中で大谷さんが私にそっと「私も歌ってみようかな」と話された。それはいい、是非にと賛成し、楽団に交渉したところ、これまた大喜びで大歓迎だという。 歌は「I left my heart in San Francisco」を英語で歌われた。それがとても上手で船上全体が大喝采。 彼は英語で取引きをしているのに話すのが苦手で話さないのでこれを聞いた全員に英語が話せるではないかとからかわれ大騒動になった。サンフランシスコから来ていた娘さんは思いがけず大変いい思い出になりましたとお礼をいわれ、大変盛り上がった。 その後は、他のスタッフご夫妻も代わり替わり、毎年のように訪問され、来られると必ず私共の家に泊まられ、両方の会社にとって親交が深まった。 その結果、平ようじ、各種パーティ商品、B-B-Q用品、などの商品を相手先のブランドで販売した。
三角ようじはオーストラリアの薬局のブランド名で販売した。
三角ようじデンタルピック
昭和46年渕側綾夫の提案で大阪府妻楊枝協同組合を結成する。理事長には渕側産商(株)社長渕側綾夫が就き、私が専務理事に選ばれた。業界初めての公的組合である。 昭和48年物不足(石油パニック)で混乱した時、北海道の丸軸製造業者と河内長野の二次加工業者が一同に集まり、つまようじの安定供給に就いて話し合い全国妻楊枝組合を結成した。 理事長には北海道の丸軸業者である千代田林産(株)の福井主計が副理事長に河内長野のつまようじ業者の二社、㈱渕側本店社長、」渕側一行、㈱広栄社専務、稲葉修が就いた。 業界初の全国的な組織が出来上がった。それを機会に河内長野の業者が揃って北海道の丸軸製造工場を訪れたり、北海道の業者が従来の取引先の枠を超えて河内長野の業者を訪れたり、値上げの交渉を全員参加で行ったりと業界の安定供給のために、風通しがよくなり、業界の発展に繋がった。 同年 為替レートが固定制から変動制に移行。一ドル360円の時代が終わった。いわゆる ドルショックである。