筆者が昭和39年に三共生興㈱に入社した折に、先輩である藤本宏さんがニューヨーク支店への連絡のため各部の連絡事項をテレックスと呼ばれる発信機を使い、毎夜一人で、発信しておられた。幅2センチ程のテープに案件を打つとテープに孔があく。これを作成しておいてKDD(国際電信電話会社)に申込みをする。多くの商社からの申し込みがあるため、順番待ちである。順番がくるとその穴のあいたテープを流す仕組みである。海底ケーブルが普及するまで、電波で飛ばすために道中に雷が発生したりすると上手く送れないこともあり、真夜中まで掛かる過激な仕事を続けておられた。同じ年に入社し、輸出部へ配属された5人 の内の二人がこの仕事を引き継いだ。 一人前になるまで、辛抱強く、我々二人を指導して下さったので大変親しい関係になった。 彼は退社後に貿易会社を営なまれ、私共の商品を販売して下さった。 その顧客の中にイタリアのつまようじメーカーがあり、日本に観光に来られたついでに京都で会いたいと連絡があり、二人で応対した。 私が毎年のようにヨーロッパへ出かけているので、一緒に訪問しようということになり、ミラノで落ち合って尋ねた。会うと両社の思惑が一致し、最初は楊枝を弊社の「キモノ」ブランドの紙箱に入れて出荷したが次第に多くなり、20フィートのコンテナで販売するように取引が大きくなり、より競争力を増すため、楊枝をバラで出荷し、イタリアで包装するようになった。2万本を箱に入れてそれを10箱カートン詰めにするとコンテナに約8400本が入る。これを毎月のように出荷した。 (日本名のブランド画像各種) 他に「サムライ」「サヨナラ」「ゲイシャ」などの強いブランドとの競合が続いた。
何故日本名なのかというとイタリアでは元来、楊枝はポプラで作られていた。ポプラは材質が柔らかいので楊枝の太さが横に並んだ丸い刃物を作り、それに直径10センチ位の原木を楊枝の長さに切って、強く刃物に打ちつけると丸軸が抜け出る。こういう製法だから丸みは一定しないし、見た目もよくない。しかも材質が柔らかい。(ポプラの原木画像)
日本製の白樺材で作ったものとは比較にならない。
昭和初期には丸いようじはまだお粗末な品物であったがイタリアへは楊枝を麦稈小箱に入れて販売した。それは乾燥した麦わらを開いて、伸して平らにし、色々な色に染めて小さなカラフルな小箱を作り輸出してきた。
というのは元々イタリアではようじは干し椎茸、ハッカ、蚊取り線香などと同じ天産品業者の扱い品だったのであり、日本製はよい商品だという印象を楊枝好きの国民に強く長く与えて続けてきたためである。こういう歴史的経過があるので三角ようじをデンタルピックと捉えることが出来ないので現在も丸いようじが主流なのであり、日本の状況によく似ているのである。この四つのブランドは今も生きていて(箱の中の楊枝:現在は中国製)イタリアの他に向かいのクロアチアにも広がっている。 こういうことで何度も訪問し長い取引関係を築くことが出来た。