昭和35年広栄社は取引先のスウェーデン生協(世界最大の生協組織)より三角ようじの生産の依頼を受けた。 この客は上記の丸い両方とがったようじの陶器樽入りと平楊枝を大量に買っていた会社であり、三角ようじの将来性に着目し、日本での生産を期待されたのである。 これは1960年ノルウェ-で開発された二等辺三角形のつまようじであり、櫛のように繋がっていて一本ずつ折って使う形式で従来のものとは全く違っている。 広栄社の高山工場である丸正産業は平ようじと丸軸を製造し、河内長野へ送っていた。 稲葉滋はその代表者である瓜田宏と相談し、三角ようじの製造機の研究を始めた。
同年渕側綾夫は高山で丸軸を生産し河内長野へ丸軸を供給していた大川正大に北海道での 生産を薦めた。それは高山では白樺が次第に奥地に求めざるを得なくなり従って価格的 に高くなってきていたからである。将来の原木需要を見越した大川正大は北海道常呂郡留 辺蘂(るべしべ)町に進出し北海道での丸軸生産の先駆けをなすのである。 彼の末っ子の大川在教はそれを引き継ぎ昭和の終わりまで丸軸を作り続けて、河内長野へ 供給をしてくれた。大川家なくしては河内長野の楊枝の独占的産地は形成出来なかった。 同じく長男の大川光則は父の事業を助けていたが、その後は独立して、高山で主に平楊枝 の生産に励み、私共の高山工場の火災後の平楊枝の供給を担ってくれた。 渕側綾夫と稲葉滋は殆ど同時にポリエチレン製の容器の使用を考案した。それまでつまようじは糸で結束しセロファンで包むのが一般的であった。糸による結束は熟練者に限られ更にセロファンでの包装は人手を要したのである。丸いポリ容器には誰でも詰められ、卓上ではそのまま容器としても使用できる便利さがあった。コストも安く、輸送にも商品が痛まない等利点が多くしばらくのうちに主流になり現在に至っている。 当初は広栄社でその機械を導入して社内でポリ容器を作っていた。熱したポリエチレンに空気をいれ、金型一杯に膨らませ、少し冷えた時に出来た容器を取り出す、俗にブロ-成形と呼ばれる製法である。 しかし、渕側綾夫の実用新案登録が稲葉滋よりほんの少し早かったため、広栄社は社内生産をやめ、外部から仕入れをするようになるのである。
当社の創業者である稲葉由太郎はアメリカから導入した機械で日本で初めて機械生産によるつまようじを(平ようじ)を大正15年に作ったが、薄くて細くようじは丸いようじになれていた日本人に受け
入れてもらえないので、それは徐々に輸出に回した。輸出市場の開拓は時間が掛かるので、国内市場向けに丸いようじを作ろうと苦労を重ねた。輸入機で白樺材を先を尖らしながら四角く裁断し、
それをプレスして丸いようじを作った。その折に二本分の長さにしておいて後で中央で切る方式にした。この方式が昭和35年頃まで長く続いた。
丸軸を半分に切る際に、どうしても切断面が荒れることが業界の悩みであり、組合の集まりでよく
話題になった。その時、砥石(グラインダー)で切れないかということになり、切ってみると切断面が
黒く焦げた。黒くなると汚れているように見えるのでやはりだめかという時に、いっそ下の部分に
二本線を入れれば、こけしのようにみえるのではとなって現在の形になった。
当初なにも飾り等不要の事と受入れられなかったが次第に親しまれ、やがて殆どの丸いつまようじはこの形になったのである。つまようじの頭部の溝は箸置きに使うためだというのは俗説で、単なる飾りである。楊枝は安価なので箸置きのように使うことはない。
中谷文雄は(昭和46年)に丸軸の切断機を大阪富田林の錦聖工作所と共同開発した。それまでヒゴ状の丸軸を手で切っていたため、その部分で生産が制約されていた。この切断機の導入でつまようじは河内長野での先付け工程の生産量が飛躍的に伸びることになる。