昭和27年溝之上一義は丸い楊枝の先端を削る(先付け)機械を開発する。現在の機械の 原型を成すものである。白樺製の丸い軸が機械で出来るようになったのにそれを切断して つまようじの長さにした後、先を削る工程で思うように生産が出来なかった。この機械の 出現で河内長野の二次加工即ち丸軸を仕入れてつまようじに加工する業界の形態が定着す る。
昭和29年荒木千代造は花楊枝を考案する。河内長野では葬儀の時、半紙を折って切り目 をいれ、割り箸に巻くと白い花が開いたようになり仏前に供える風習がある。これを楊枝 に応用し色のついたセロファンを使ったので綺麗な飾り付き楊枝になった。これがアメリカで食卓を飾るパ-ティピックとして人気を得た。この付加価値のためにそれ以前に比べ、数倍の価格になり業界の地盤の引き上げに大いに貢献した。(写真参照) わが国の後は、韓国で作られ、後に中国でも作られ長寿命のアメリカへの輸出品になった。
昭和31年大城戸吉富は西宮で専門の化学を生かし、丸い楊枝の先端に独自に考案した葉 緑素を塗布し発売した。ハッカの爽かさを加味したスマック楊枝は独自の分野を形成した。 ホンコンやシンガポ-ルの華僑の人々は木そのものの色より真っ白のつまようじを好 むため漂白剤で白くし、その先端に葉緑素を塗布した楊枝が輸出され好評を博した。 香港・シンガポールの、殆どのホテル入れの包装をしてこの楊枝が長く使われた。 現在はつまようじは白くされていないがハッカ付きは根強い人気がある。
昭和35年稲葉滋(二代目社長)はバ-でウィスキ-のグラスの代わりに使われていた小 さな陶器製樽型容器にヒントを得て陶器の樽型楊枝入れを考案した。これがヨ-ロッパ・ アメリカで大変な人気を得た。それまで輸出向けには主に紙箱に入れて出荷していたが陶 器製の容器付きつまようじはそのまま卓上に置けるのと樽型そのものへの郷愁が受けたの であろう。まずデンマ-クには平ようじを入れた樽型が人気を得た。ドイツ・スイス・フ ランスへは両方尖ったカクテルピック、オランダへは片方尖ったつまようじが各々樽型に 入れられた。アメリカ・カナダへは食用色素で染めたカクテルピックが樽型に入れられ大 量に約30年にわたり出荷された。(写真参照) この時期、外貨を稼ぐ輸出が経済産業省より奨励され、毎年「輸出貢献企業」の門札を工場の入り口に掲げた。いわゆる高度成長期である。 その後豚・ロバ・靴等色々な形の陶器に入れられ輸出された。(写真参照) この時期、外貨を稼ぐ輸出が経済産業省より奨励され、毎年「輸出貢献企業」の門札を工場の入り口に掲げた。いわゆる高度成長期である。 その後豚・ロバ・靴等色々な形の陶器に入れられ輸出された。(写真参照) 豚は太る=増えるを意味し、荷車を引くロバや靴は苦労した古き良き時代の郷愁を呼ぶの か大変な人気を博し多くの国々に輸出された。靴の卓上容器は日本では考えられない。この陶器の容器入りは欧米ではノベルティ(手軽なプレゼント品)として受け入れられ、大量に出荷した。そのため四日市(万古焼)に一軒の窯元を丸抱えにして楊枝入れを作ってもらうことが
約25年続いた。
一方で両方先の尖ったようじを赤、青、黄、緑、橙の5色に食用色素で染めて、透明のケースや樽型の陶器の容器に入れて、カラフルなパーティピックとしてアメリカの食料品売り場という新しい販路を生み出し、息長いヒット商品となったのである。
花ようじ
葉緑素付きスマックようじ
当社の両方先が尖った輸出用カクテルピック
陶器製タル型容器入り両先カクテルピック
昭和31年の広栄社における平ようじ生産現場の写真を掲載する。
貯木用のプール(10x8x2.5m)を作り、白樺の原木を常時蓄えた。
原木の切断 丸鋸で約30センチに。
工場には大きなモーターが一台だけあり、それでシャフトを回し、各々の機械はそのシャフトからベルトで回転力をとって稼働させた。
切った原木を煮沸 3時間 (この窯跡には今もレンガが残っている。)
煮て柔らかくなった原木を約2.5ミリの厚さにかつら剥き
かつら剥きされ帯状になって出てくる (横に置いてある俵には高山工場から送られてきた平ようじが入っている。)
上記の剥工程で刃物をセットしておくと約6センチになって出てくるので平ようじ用に両端の上面をはぎ取る機械
両端の面取りをした板を金型で打ち抜くと平ようじになる
打ち抜いた平ようじを摩擦機に入れて数時間回転させて滑らかにする
バラバラの平ようじを揃える機械
揃え機作業
揃えた平ようじを仕切りのついた木箱に入れる作業
箱詰め作業 北野カツ江氏、芝池光子氏、中村孝子氏、稲葉滋
箱詰め作業 中村孝子氏、藤田加代子氏、中島政子氏
昭和44年から46年までの3枚が残っている。