広栄社の創業者であり、祖父である稲葉由太郎(明治17年生)は23歳で中谷富三郎の娘ハツと結婚し米屋の跡を継いだ。当時、米の価格は相場制で大変儲けたのである。少し下り坂の時に友人より市会議員立候補の話を持ち込まれた。自分にはその能力がないことを自覚していたので、逆にその友人の後押しをすることになる。その結果、選挙違反で免許制の米屋を続けられなくなった。 そこで地味な生き方を求めて、伊賀名張の矢持村で楊枝を製造している谷本氏を訪ねた。彼は河内長野へ販売しており、助力を要請され手伝うこと2年。仕事のやり方で意見が別れる。 大正6年、34才の時三重県鈴鹿の関町で地元の有力者の今井直次郎氏を社長とし、関勢 社を設立し、専務として独立。 実際は大正4年に創業していたが本人が大正6年と話していたのでそのようにしている。大正5年3月の出荷帳と同年6月の仕入帳が残っている。
大正五年の仕入れ帳
大正時代 三重県鈴鹿の関町で作った豆木製の楊枝
関町の工場の出荷風景
卯木うつぎ によく似たキブシ(木五倍子)別名マメブシ(豆五倍子)で丸ようじ(うつぎようじ)を作り、各産地へ販売を始めた。その一つに河内長野も含まれていた。 元来三重県は卯木の多い土地である。歌人の佐々木信綱は三重の人で有名な小学唱歌「夏 は来ぬ」の中に「卯の花の匂う垣根にホトトギスのはやも来鳴きて」と言う歌詞があるが この卯の花の咲くのが卯木なのである。
三重では垣根にする程、卯木が多くあったのであ る。
そのため原木のコストも安価でしかも量産化を図ったので河内長野に比べ、約半値で生産出来たという。
尚、大正4年の大阪府立図書館蔵史料(大阪府農家副業品調査)によると
農家戸数 450戸 農家人口 2,470人
妻楊枝従業者戸数 300戸 妻楊枝従業者人口 930人
年間生産額 20,000円
次に河内長野の製法と販売については次の通りである。
センは黒文字を割った後、巾と厚みを一定にする道具。
注)一 種類・・・丸楊枝は卯木(宇津木)を原料とする。
二 器具・・・ヒゴヌキは卯木の材料を鉄板の穴の間を通しヒゴ状にする道具。
三 販路 取引状態・・・黒文字楊枝は仲買人が各農家に材料を渡し、加工させ妻楊枝業者に 納めた。それに業者は包装加工し、市場に出した。 同様に卯木楊枝は業者が製造家より丸楊枝の製品を買い包装加工し、市場に出した。