当時(昭和48年迄)は輸出が売り上げの95%を占めていたので、輸出企業として安定して進んできたが、新しく国内市場を開拓せざるを得なり、時代の流れで方向転換を迫られた。 昭和初期に日本で初めて機械生産した平楊枝がすぐに折れると国内で評価されないので、輸出に活路を見出し、海外市場を開拓してきたが、為替の問題で輸出が厳しくなれば、慣れない国内市場に目を向けざるを得ない厳しい立場におかれたのである。 当時のつまようじの状況は丸いようじ(片方の先端に溝のついたいわゆるこけしようじ)が市場を席巻していた。これに対し輸出品は丸いようじは両方尖っている。果物や料理を突き刺す道具いわゆるカクテルピックである。国内と 出では商品が全く違う。 太さも国内2.2ミリ、輸出品は2.0ミリ。長さも国内は60ミリ、海外は67ミリと違っている。規格が違うので製造機も違う。しかも変動制になって円は次第に強くなっていく。 長い取引関係があるので海外から引き合いは同じようにくるが、為替の関係で先方へは価格が高くなる。仕方なく、コストを切り詰め、利益を落としての取引を続けながら、国内市場を開拓しなければならないが、そう簡単ではない。なにしろ国内市場はようじといえば丸いこけしようじである。
ちなみに丸いようじで片方しか尖っていないのは日本だけである。
海外向けのカクテルピック
国内向けのこけしようじ
昭和48年6月23日に創業者である稲葉由太郎が亡くなった。91歳であった。
その葬儀で大阪妻楊枝協同組合の理事長渕側綾夫氏が述べて下さった弔辞が残っている。
初め部分
終わり部分
全文を読んで下さるとつまようじに賭けた生涯がよく分かる。
弔 辞
大老の稲葉さん、大先輩の稲葉さん 忽然としてこの世を去られる、悔やんでも悔やみきれません。 本当に残念の一語につきます。 今 老の霊前に最後のお別れの言葉を送るに際して、彷彿として在りし日の老との交わり が、走馬灯の如く去来してなりません。殊に私の父とは無二の親友でした。 又、深い取引関係の間柄でした。その頃は私の少年期で随分親しくして戴いてその時分の 稲葉さんのやさしい面影がいつも目前にちらついてなりません。 その頃人力車に乗って広野や高向に来られたのも昨日のように思われてなりません。 三重県に工場を作られて間もなく、熊本県に工場を作られ、数年後に上原町に今の本工場を作られ、株式会社広栄社の基礎を確立され益々発展の途上に在ります事は誠に喜びにたえません。 老は元々研究心旺盛でこの時代に全国を跋渉され、良き原材料を研究され、多数の資料を 得られ、今も之を大切に保存され自らを慰められていたのであります。 次に輸出商品の生産と増産販売こそ妻楊枝業界の使命だといち早く着眼され、米国より 妻楊枝製造機械を購入され、白樺材より妻楊枝生産の第一歩を開拓され、数年にして米国への輸出に成功されましたことは妻楊枝業界に隔世の感を与えたものです。 それ以来白樺材が妻楊枝材料の王者となり現在十中の九以上を占めている状態であります。 之 全く老の先見の明の表れに他ありません。 稲葉大老の実蹟こそ実に尊いもの、偉大なものといえましょう。 又、将来を正しくキャッチし生涯をこの事業に没頭されました事は誠に立派な生きがいをされたものと存じます。 尚又、老は絶えず業界発展を切望され業者の指導にもよく努力して下さいました。 本当にありがとうございました。 我々業界一同は大老稲葉さんの遺志を継ぎ、益々一致協力して業界の興隆と発展に邁進することを霊前に誓いお別れの言葉と致します。
ではさようなら
昭和48年6月23日
大阪妻楊枝協同組合
理事長 渕側綾夫
二代目社長の稲葉滋は初代がアメリカから機械を導入して苦労して作った平楊枝が丸いようじに馴染んでいた日本人に受け入れられないと分かると海外市場の開拓に取り組んだ。500本、750本を小箱に入れた{KING}ブランドの見本をカバンに詰め込み、大阪・神戸の貿易商社をなめつくすように訪ねて海外の客先にオファーをしてくれるように依頼して回った。ようじは海外でも使うのですか?という質問が多かった。そのたびに歯がある限りようじは必要ですと説いて回った。歩きまわるので靴の消耗が激しかった。靴を履き潰すほど歩いたという証拠だと誇りにしていた。
伸び盛りの日本にはドルが必要だったので輸出貢献企業の看板が通産省から届き、玄関に掛けた。これが二代目の稲葉滋の勲章だと思っている。